「知ることにより変わる・変えられる」を理念に国内外の良質な映画を毎⽉お届け
MOVIE- 知ることにより変わる・変えられる-
「知ることにより変わる・変えられる」を理念に国内外の良質な映画を毎⽉お届け
SNS、未曾有の⻑寿社会、家⽗⻑制や終⾝雇⽤制度の崩壊、多様なジェンダー・アイデンティティやセクシュアリティの可視化、顕著になったリプロダクティブ・ヘルス/ライツの貧困、そして、新型コロナウィルス……現代は前例のないことだらけ、ロールモデル不在の時代です。だからこそ、私達は⾃分のいる社会や世界をもっとよく知ることで、新しい⽣き⽅をデザインしていけるのではないでしょうか。「知ることにより変わる・変えられる」を理念に国内外の良質な 映画を毎⽉お届けしていきたいと思います。
ここ数年、2000年代前半に生まれたZ世代を描いた欧米の青春映画にパラダイム・シフトを見る。グレタ・トゥーンベリさんを始めとする彼らの世代は、包括的性教育、人権教育やSDGs教育がされている上に幼少期からスマホを使っているから、触れる情報量も圧倒的に多い。
2020年、人気女優だったオリヴィア・ワイルドが初めて監督した『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』がパラダイ厶・シフトの先駆けだったと思う。その3年後の2023年、4月7日に公開されるフィンランド映画『ガール・ピクチャー』は、『ブックスマート』よりもさらに一層、青春映画の規範がなくなっていた。今回は、そのパラダイムを探っていきたい。
クールでシニカルなミンミ(アーム・ミロノフ)と、素直でキュートなロンコ(エレオノーラ・カウハネン)は同じ学校に通う親友。放課後はスムージースタンドでアルバイトしながら、恋愛やセックス、そして自分の将来についての不安や期待にまつわるおしゃべりを楽しんでいる。そんな中「男の人と一緒にいても何も感じない自分はみんなと違うのでは?」と悩み続けていたロンコは、理想の相手との出会いを求めて、果敢にパーティーへと繰り出す。一方、ロンコの付き添いでパーティーにやってきたミンミは、大事な試合を前に、プレッシャーに押しつぶされそうなフィギュアスケーターのエマ(リンネア・レイノ)と急接近する――。
まず、第一のパラダイム・シフトはスクールカーストがなくなっていたことと、シスターフッドがセルフパートナーを軸にしたものだということ。
映画の冒頭で、ミンミはほかの女の子と問題を起こすアウトサイダー的な存在だということが判明する。後に恋人となるエマとの出会いも喧嘩腰だった。ミンミとエマの出だしは最悪だったのに、エマのグループで、いわゆる”キラキラ組”の女の子たちはミンミとロンコをパーティーに誘う。
これがハリウッド映画なら、変わり者のミンミとロンコはキラキラ組にイジメられる! と身構えてしまうのだが、パーティーで彼女たちは誰からもイジられたり、仲間はずれにされたりすることはなかった。
こういったスクールカースト不在は『ブックスマート』でも描かれていたが、シスターフッドの描かれ方が『ガール・ピクチャー』は違う。『ブックスマート』を含むこれまでのティーン映画のベストフレンドたちは、大抵べったりだった。しかし、ミンミとロンコはいつも一緒にいない。お互いを慰め、アドバイスしあい喧嘩もするが、2人の間には自他境界線がしっかりと引かれているのだ。自分自身が究極のパートナーであり、その上で「誰かと親密になることってどういうことだろう?」と模索する。
女の子たちは適度な距離感を置いてシスターフッドを発揮する描写が新鮮だ。
第二のパラダイム・シフトは『ブックスマート』と同様に、クィア映画なのにクィアネスの葛藤がないところだ。ひと昔前の青春映画では、同性愛者はカミングアウトやアウティング(他人の性自認や性的指向を本人の了解なしに暴露すること)の葛藤を描き、レズビアンは”dyke(ダイク)”と呼ばれるステレオタイプ的な表現をされていたか、あるいは、過剰に性的な存在として描かれていた。ところが、『ガール・ピクチャー』のエマとミンミの同性愛には性的指向に対する葛藤や迷いが一切ないし、周囲もごく自然に彼女たちを受け入れている。
このパラダイム・シフトの理由はどこから来たのかーー。
『ガール・ピクチャー』の舞台であるフィンランドは1970年代から性教育や人権教育がされて来たし、同性婚も制度化されている。驚くべきことに、幼稚園に入る前のプレスクールの段階で包括的性教育の準備が始まる。まず、多様な身体の人々がいることを学ぶ。自分とは何者か、自分が好きで嫌いなものは何か。自分の好き・嫌いを明確にし、大切にすることで、他人の好き・嫌いも尊重していく。
そして、歳を重ねるにつれ、プライベートゾーン、プライベートスペース、境界線などを学んでいき、生殖やセーファーセックスについて学習する。根底にあるのは、自分の性のあり方(セクシュアリティ)には自己決定権があり、性は幸福、尊厳や健康につながる“人権”だという性意識だ。
自分の性のあり方は自分で決めるーーという包括的性教育がされているから、クィアネスに対する葛藤がないのだろう。
そうして、性的同意がごく自然に描かれているのが第三のパラダイム・シフトである。フィンランドでは小学生のうちに自己決定権や性的同意が教えられている。だから、ミンミ、ロンコ、エマは性行為をする前に、当たり前のように「触っていい?」「舐めていい?」と性的同意を確認する。男の子も同じだし、すでに恋人同士あっても同じだ。
このように、揺るぎのないセクシュアリティを自覚しているように見えるミンミ、ロンコ、エマのなかで、自身のセクシュアリティに迷いを抱えている女の子がひとりいた。それは、ロンコである。
ロンコはある悩みを抱えている。異性愛者の自覚があるのにもかかわらず、男性に対して恋愛感情、性的興奮やオーガズムを感じないのだ。ひょっとしたら彼女はアロマンティック(他人に恋愛感情を持たない人、またその指向)、もしくは、アセクシャル(他人に性的欲求を抱かない、性的に惹かれない)、あるいは、その混合かもしれない。それを確かめるために、ロンコは様々な男の子と性的コミュニケーションをとり、自分のセクシュアリティを探究していく。
興味深いことに、ロンコの「オーガズムを感じない」という悩みは、既存の包括的性教育に欠如している部分を浮き彫りにする。それは、一般的に女性と男性にはオーガズムギャップがあり、女性は男性よりもオーガズムを感じにくいという傾向だ。これは様々な性科学の研究で明らかになっている。
例えば、フロリダ大学教授のローリー・ミンツ博士が約800人の大学生を調査したところ、男性の9割がパートナーとのセックスで”ほとんどいつも”オーガズムを経験する一方、女性は4割しかオーガズムを経験していないことが分かった。
男性の場合、性的指向はオーガズムに関係なかったが、女性の場合は同性愛者のほうが異性愛者よりもオーガズムを感じる。(※)つまり、ヘテロセクシュアルの女性にとってオーガズムはなかなか複雑なのだが、オーガズムにまつわる知識はまだ包括的性教育には取り入れられていない。現在の包括的性教育の限界をこの映画は指摘しているようで面白い。
スクールカーストの不在、セルフパートナーにもとづいたシスターフッド、同性愛に対する葛藤の欠如、性的同意の描写、包括的性教育の限界を描き、これまでのティーン映画の規範を一掃している本作では、3人の女の子たちが大らかに自由と自立を享受しているように見える。しかし、この映画が観客の共感を呼ぶのは、“女の子であること”をリアルに映し出しているからだと思う。彼女たちはまだ、人生経験のない17歳から18歳になるティーン。自立しているように見えて、未だに親からの愛情を必要としているし、将来も不安だ。自分に自信がなくなるときも、当然ある。
ミンミはシングルマザーの母親が新しい家族を作ったことに心を痛め、”愛される”自信を失い、自ら愛を壊そうとする。エマは、フィギュアスケートから逃げる代わりにミンミと恋愛をしているのかもしれない。ロンコは自分が何を求めているのかが分からない。
子どもじゃないけど、大人じゃない3人の女の子たちは、愛、セクシュアリティ、自分の居場所を求めてさまよい、傷つきながら、人生はグレーなのだと理解していく。つまり、”宙ぶらりんの自分”を受け入れていくのだ。
これまでの青春映画にありがちな、ドラマチックなパラダイムはないけれど、鮮やかな色彩、エレクトロ・ポップビートと女の子たちのクローズアップ・ショットの連続で、ティーン特有の“エモーショナルなジェットコースター”に私たちを乗せてくれる『ガール・ピクチャー』。女の子であることがどんな日々だったかを思い出させてくれる、ちょっぴり痛くて優しい映画だった。
【参考】
※The ‘orgasm gap’: Why it exists and what women can do about it – NBC News
ガール・ピクチャー
2023年4月7日(金)より新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開
©2022 Citizen Jane Productions, all rights reserved
■公式サイト:https://unpfilm.com/girlpicture/
2023.4.7 UP