「知ることにより変わる・変えられる」を理念に国内外の良質な映画を毎⽉お届け
MOVIE- 知ることにより変わる・変えられる-
「知ることにより変わる・変えられる」を理念に国内外の良質な映画を毎⽉お届け
SNS、未曾有の⻑寿社会、家⽗⻑制や終⾝雇⽤制度の崩壊、多様なジェンダー・アイデンティティやセクシュアリティの可視化、顕著になったリプロダクティブ・ヘルス/ライツの貧困、そして、新型コロナウィルス……現代は前例のないことだらけ、ロールモデル不在の時代です。だからこそ、私達は⾃分のいる社会や世界をもっとよく知ることで、新しい⽣き⽅をデザインしていけるのではないでしょうか。「知ることにより変わる・変えられる」を理念に国内外の良質な 映画を毎⽉お届けしていきたいと思います。
8月19日に公開された映画『セイント・フランシス』は全編にわたり10分毎に生理の血が流れるという前代未聞の映画だ。とはいえ、生々しい流血の映画ではなく、生理が”女性の生活の一部”として自然に描かれたハートウォーミングでユーモラスな成長物語である。
生理、妊娠、中絶、出産、産後鬱、女性が受ける様々なルッキズムやエイジズムなど、女性の一生をそのまま映し出した本作。今回、脚本・主演を務めたケリー・オサリヴァンさんに取材した内容をもとに、日本の「リプロダクティブヘルス・ライツ(性と生殖に関する健康と権利)の貧困」を紐解きたい。
うだつのあがらない日々に鬱々としながらウェイトレスとして働くブリジット(ケリー・オサリヴァン)、34歳、独身。パーティーで知り合った26歳のジェイス(マックス・リプシッツ)とは一緒の時間を共有するも、恋人ではなくカジュアルな関係のつもりだ。そんななか、黒人とヒスパニック系のレズビアンカップルの6歳の娘フランシス(ラモーナ・エディス・ウィリアムズ)のベビーシッターとしてひと夏働くことになったブリジット。特別子ども好きではないブリジットはフランシスと格闘する日々のなか、ジェイスとの間に予期せぬ妊娠が発覚してしまう。迷わず中絶を選んだブリジットが経験したひと夏とは……。
まず、アメリカで起きている現在の中絶論争をざっくりと説明したい。アメリカで中絶が合法になったのは1973年の「ロー対ウェイド判決」。以来、女性の中絶権を支持するプロチョイス派(女性の選択を尊重する)と、反対するプロライフ派(胎児の命を尊重する)が闘争を繰り広げてきた。とりわけプロライフ派には狂信的な人が多く、ときには中絶医の暗殺や中絶クリニックの襲撃にまで発展。
プロライフ運動はもともとカトリック教会の一部グループから始まったが、いまでは様々な宗派の人々が参加しているという。そんなプロライフ派は教会の経済力と組織力を活用し政治に働きかけて、中絶を非合法化しようと憲法修正に向けて運動してきたのである。
これに加えて、保守派の政治家も票を獲得するため中絶論争を利用してきた。レーガン、ブッシュ、トランプら保守である共和党の大統領たちが、最高裁判所に保守派の判事を送り込み続け、現在、最高裁のマジョリティは保守派の判事が占めるようになった。その結果、多くの州が「中絶制限法」を成立させて、中絶クリニックを閉鎖に追い込むようになり、とうとう、2022年6月、米連邦最高裁判所は1973年の「ロー対ウェイド判決」を覆した。この最高裁判断により、各州が中絶を違法にすることができるようになったのだ。既に8州で中絶禁止が施行されているが、少なくとも8州がそれに続くと予想されている。(※1)
数年前に『セイント・フランシス』の脚本を書いたとき、中絶制限法は保守的な州に広がっていたものの、「まさか、時代がここまで逆行するとは夢にも思わなかった」と言うケリーさん。アメリカの現状について「お腹にいる”胚芽”を、いま目の前で困窮している妊娠女性よりも優先するアメリカの偽善と矛盾が信じられません」と憤る。
2021年に 米食品医薬品局(FDA)が妊娠中絶薬の郵送を許可していたので、中絶禁止法や制限法のない州では中絶薬が浸透しているし、中絶禁止法がある州でも海外の医師にオンライン診療してもらい中絶薬を郵送で受け取ることが可能なアメリカ。現在、約54%の中絶が経口中絶薬により行われているという。
本作の舞台はイリノイ州・シカゴの郊外で民主党よりの州だから中絶制限法はない。だから、ブリジットはクリニックで中絶薬を処方してもらい、ジェイスに付き添ってもらいながら自宅で服用する。実は、このエピソードは脚本を書き主演を務めたケリー・オサヴァリンさんが実際に体験した中絶だ。ケリーさんは、「現在、経口中絶薬はクリニックに行かなくてもオンラインで処方されることが可能になったので、中絶薬が家で服用するものだと示すことは非常に重要でした」と説明する。
経口中絶薬が”家で安全に服用できる”という描写は日本人にとっても重要だ。なぜなら、2021年12月に日本初の経口中絶薬の承認申請がラインファーマ株式会社により行われたが、自由診療で処方されることになりそうだからだ。これは医師が価格、入院やその他の要件を決定できることを意味する。
実際に、日本産婦人科医会は、当面は“入院”が可能な医療機関で中絶を行う資格のある医師だけが行うべきだという意向を示した(※2)。加えて、日本産婦人科医会の木下勝之会長(当時)も手術と同じく「10万円程度」にするのが望ましいと主張したのである。(※3)
一方、映画では中絶薬の費用は診療を入れても500ドル(約6万7千円)。ブリジットは医療保険を持っていなと思われるから高額だが、アメリカでは、避妊や中絶費用の一部が保険適用されたり、未成年や貧困者には無料に近い形で支援を受けられるクリニックがあったりする。世界一医療費が高いと言われるアメリカでも、経口中絶薬は最高で600ドル(約8万円)なのだ。なぜ、日本の中絶薬はこれほど高額で、入院が必要とされるのだろうか?
驚くべきことに、イギリスやフランスなどの先進国では中絶や避妊に健康保険が適用されるので、実質無料のところも多い。日本同様に健康保険の効かないオーストラリアでも中絶薬は4万円弱程度。中絶が幅広く行われているのは世界に80国あるが、そのなかの74%が一部、あるいは全額が保険適用となっているのに、日本では中絶が自由診療なのだ(※3)。中絶薬の世界平均卸価格は700円代であることを踏まえると、日本もイギリスやフランスみたいに保険適用にし、適正価格を政府が管理すべきだろう。
国際社会は「性と生殖に関する健康への権利」と「性と生殖に関する女性の自己決定権」の2つを基本理念としている。しかし、避妊、中絶、出産が保険適用されない日本では、「性と生殖に関する健康への権利」が女性に与えられていると言えるだろうか?
「女性の自己決定権」においても同様のことが言える。実は、女性が中絶を受ける際、結婚していない場合などは、相手の男性の同意は法的には不要とされている。それにも関わらず、医師が同意を求めるケースが多々あったのだ。
2020年6月、名古屋の当時20歳になる女性が公園のトイレで赤ちゃんを出産し、そのまま死なせてしまった事件を覚えている人もいるだろう。この女性は相手の男性から連絡が途絶えて2件のクリニックから中絶を断られていたという。結局、彼女は死体遺棄と保護責任者遺棄致死容疑で逮捕、起訴されてしまった。男性の同意が中絶に必要だとされるのは、明らかに国際水準の「女性のからだは本人が決める」という“からだの自己決定権”から離れている。
ただし、この配偶者同意要件については朗報がある。つい先日8月18日に日本産婦人科医会の石渡勇新会長が、同意は不要だという法律の適切な解釈を研修会などで周知する方針をNHKに語ったのだ。(※4)
映画では、妊娠が発覚したブリジットがジェイスに告げたとき、ジェイスはブリジットに彼女の意向を聞いてサポートするが、“彼自身の希望”は一切発言しない。26歳のジェイスは包括的性教育を受けたミレニアム世代だから、女性の自己決定権や同意を理解しているのだろう。
映画祭でこの映画が上映されたとき、複数の男性観客が「僕にはジェイスの気持ちが分かる」とケリーさんに話しかけてきたそうだ。女性の自己決定権や同意に寄り添う男性の姿は、フェミニズムのバックラッシュを受けて包括的性教育が与党に潰され、ジェンダーギャップが一向に縮まらない日本人の目に眩しく映ってしまう。
さらに、「女性が中絶すると決断し、その決断に揺れることなく中絶をして安堵感を得る」という中絶物語を作りたかったと話すケリーさん。確かに、『ブルーバレンタイン』『セックス・アンド・ザ・シティ』『JUNO/ジュノ』など、多くのアメリカの映画やテレビでは手術の直前に中絶を思いとどまり、出産する女性が描かれてきた。半数以上の中絶に中絶薬が使用されているが、経口中絶薬は“中絶のスティグマ”(負の烙印)をなくさなかったとケリーさんは言う。
だからこそ、中絶のスティグマから脱却する物語として、経口中絶薬を服用したブリジットが出血し、胚芽と思われる血の塊をジェイスに見せる場面は非常に示唆に満ちている。ブリジットが不安そうに血の塊を見せるとジェイスは「ネズミの糞みたい」とジョークを言うのだ。
この場面には、ケリーさんのこんな思いが込められている。
「どこか中絶のスティグマに囚われたブリジットに、ジェイスは、”血の塊に罪悪感を覚える必要はない”、“ブリジットの選択は彼女だけのものだ”と言いたかったんです」
近年、セリーヌ・シアマ監督の『燃ゆる女の肖像』(2020)、エリザ・ヒットマン監督の『17歳の瞳に映る世界』(2020)、オドレイ・ディワン監督の『Happening(英題)』など、女性監督による中絶体験を描いた作品が海外の映画祭で受賞し、絶賛されている。世界的にも女性監督が増えてきたことで、中絶をスティグマと捉えない、多様な中絶の物語が今後も生まれるだろう。
中絶だけでなく、生理、フックアップカルチャー(デートアプリの増加で一夜限りの肉体関係をもつ文化)、エイジズムやルッキズムの社会的抑圧、同性愛や人種に対する差別、産後鬱など女性の一生を映し出した物語『セイント・フランシス』。作品のトーンは軽快であたたかいが、日本女性の「リプロの貧困」についても考えさせられる素晴らしい映画に仕上がっている。
2022.8.29 UP